御前立は蔵王大権現
当山では、本堂裏手の岩山そのものを「蔵王大権現」としてお祀りしております。
境内から本堂の後ろに望むことのできるその岩山は、古くより霊山として大切にされ、修験道の行者が日光に向かう入り口でした。
蔵王大権現は、蔵の王様と書き、山から金・銀・鉄の富を生み出す神仏習合の神様です。
ご神木は桜の木となり、本地仏の十一面千手観音菩薩様のお働きが、力強い姿となってあらわれたものと伝えられています。
本堂には十一面千手観音菩薩をお祀りし、その背後の岩山には蔵王権現をお祀りする
※この配置は、「慈悲」と「霊威」が一体であることをあらわしています。
山そのものが御神体であり、祠はその霊威に手を合わせるための場です。
どうぞ本堂にお参りの折には、あわせて裏山の蔵王大権現にも心を向けてお参りください。
※光明寺岩山から日光までの修験の古道は上級者向きなので、
一般の方は危険ですのでご遠慮ください。

ご本尊 十一面千手観世音菩薩
ご本尊・十一面千手観世音菩薩は、正しくは『千手千眼観自在菩薩』とお呼びします。
十一の顔(十一面)は、あらゆる方向を見渡し、人々の苦しみを救う慈悲を表します。
千の手と手のひらの眼(千手千眼)は、無限の救済能力の象徴です。
お名前のとおり千本の御手をもち、その手ごとに眼を有します。
ですから、古来より千手観世音菩薩は、千眼を垂れ千の慈悲の手を差し延べて、もれなく衆生をお救いしてくださる菩薩様と言われます。
光明寺ご本尊の十一面千手観世音菩薩を刻まれた行基菩薩は、奈良時代の天智七(六六八)~天平勝宝元年(七四九)の僧です。
天武十年(六八一)に13歳で出家し、道昭上人、義淵上人らに教えを受けました。
行基菩薩は、ある時とある疑いを受けて一時は伝道を禁じられましたが、廬遮那仏(るしゃなぶつ・奈良の大仏)造像のときに衆庶を勧誘した功績で、天平十七年(七四五)に大僧正に任ぜられました。
しかし、その四年後の天平勝宝元年(七四九)に菅原寺で没しました。
伝えによりますと、都鄙を周遊して衆生を教化しているときに、時には一千人もの衆生が追従したと言われています。また、自ら弟子を率いて要所に橋を造り堤を築いてまわりましたので、農家は長い間たいへんな恩恵を蒙ったという伝えも残されています。
聖武天皇から大僧正位を授けられたこと、庶民への慈善活動を重ねられたこと等もあって、上人は、人々から行基上人ではなく『行基菩薩』と称されました。
宝珠弁財天像
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東上州第三十二番観音札所
本堂に隣接して建つ観音堂が、東上州第三十二番観音札所の霊地です。
この東上州観音札所は、江戸時代中頃の宝永五年(一七〇八)四月に尭観道心という人が、開かれたと伝えられています。
当時、盛んになっていた秩父・坂東・西国観音霊場巡りは、想像以上に多くの困難・苦難を伴いました。
そこで、道心は、人々がもっと容易に霊場巡りができるようにと、東上州の邑楽・新田・山田三郡にまたがる三十三か寺を『観音札所』に選定し推奨しました。これが、東上州観音札所巡りの始まりなのです。(別説もあります。)
光明寺は、その三十三霊場の三十二番目の札所になります。
御詠歌
「ありかたや ちかひもふかき 千手堂 二世あんらくと たれもたのまん」
安産祈願
観音堂に詣でますと、底の抜けたたくさんの「ひしゃく」が供えられているのを見ます。
これは、「底が抜け水がたまる事なく通り抜けるくらいに、お産が軽くすみますように」と、安産を祈願する女性が、ひしゃくの底を抜いて奉納したものです。
このたくさんのひしゃくが供えられているということから、ここには、今もなお『産体様信仰』が息づいているということ、大勢の安産祈願者が十一面千手観世音菩薩の御慈悲・御加護におすがりしているということを物語ってもいるわけです。
観音堂の見事な彫り物にも、鑑賞の目を注ぎたいものです。
桐生七福神第一番札所
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